はじめに
足の付け根、いわゆる鼠径部(そけいぶ)にしこりや腫れを感じたことはありませんか。デリケートな部位でもあり、「なんとなく気になるけれど、受診するのは恥ずかしい」と感じて放置してしまう方も少なくありません。しかし、鼠径部のしこりは様々な病気のサインである可能性があり、中には早期の治療が必要なものもあります。
本記事では、鼠径部のしこりの原因となる代表的な病気について、その症状、診断方法、治療法などを詳しく解説いたします。正しい知識を身につけて、適切なタイミングで医療機関を受診できるよう、ぜひ参考にしてください。
鼠径部とは:解剖学的基礎知識
鼠径部の位置と構造
鼠径部は、太ももの付け根から下腹部にかけての三角形状の領域を指します。具体的には、左右の足の付け根の溝(鼠径溝)より内側から恥骨の外側にかけての部分で、「Vライン」や「ビキニライン」とも呼ばれる箇所です。
この部位は胴体と脚を結ぶ重要な連結部分であり、解剖学的に複雑な構造をしています。鼠径部には「鼠径管」という細い管があり、これが鼠径部という名称の由来となっています。
鼠径部を構成する重要な組織
鼠径部には以下のような重要な組織が存在しています:
血管系
- 大腿動脈・静脈
- 内腹壁動静脈
- 下腹壁動静脈
神経系
- 大腿神経
- 外側大腿皮神経
- 閉鎖神経
リンパ系
- 鼠径リンパ節群
- リンパ管網
筋膜・靭帯
- 鼠径靭帯
- 腹横筋膜
- 大腿筋膜
鼠径管内容物
- 男性:精索(精管、精索血管、精索神経)
- 女性:子宮円索
この複雑な解剖学的構造により、鼠径部は様々な病気が発生しやすい部位となっています。
鼠径部のしこりの主な原因疾患
鼠径部にしこりや腫れが生じる原因は多岐にわたります。以下、代表的な疾患について詳しく解説いたします。
1. 鼠径ヘルニア(脱腸)
概要と発症機序
鼠径ヘルニアは、鼠径部のしこりの最も一般的な原因です。腹壁の筋肉の隙間や弱い部分から、腹腔内の臓器(主に小腸)が皮膚の下まで脱出する病気です。「脱腸」とも呼ばれ、男性に圧倒的に多く、男女比は約8:1とされています。
発症のピークは30歳代から始まり、加齢とともに増加します。これは筋膜や靭帯の強度が年齢とともに低下することが主な要因です。
症状の特徴
典型的な症状
- 立位や腹圧をかけた時に鼠径部が膨らむ
- 仰臥位(横になった状態)では膨らみが消失する
- 初期は痛みがないことが多い
- 進行すると引っ張られるような痛みやチクチクした痛みを感じる
進行した場合の症状
- 膨らみが常時存在する
- 痛みが強くなる
- 歩行時の違和感
- 嵌頓(かんとん)時には激痛と嘔吐
診断と治療
診断は主に身体診察によって行われます。立位での診察で鼠径部の膨らみを確認し、用手還納(手で押し戻すこと)が可能かどうかを調べます。
治療は外科手術が基本となります。現在の主流は人工メッシュを用いた修復術で、以下の方法があります:
- 鼠径部切開法:従来法で、鼠径部を直接切開してメッシュを留置
- 腹腔鏡手術:腹腔内からアプローチする低侵襲手術
合併症と予後
適切な治療を受ければ予後は良好ですが、放置すると嵌頓(脱出した腸管が締め付けられて戻らなくなる状態)を起こし、腸閉塞や腸管壊死など生命に関わる合併症を引き起こす可能性があります。
2. 鼠径リンパ節腫大
リンパ節の役割と腫大のメカニズム
リンパ節は体内の免疫システムの重要な構成要素で、細菌、ウイルス、がん細胞などの異物を感知・排除する役割を担っています。鼠径リンパ節は下肢、陰部、臀部からのリンパ流の中継点となっており、これらの領域に感染や悪性疾患があると腫大することがあります。
正常な成人でも1cm程度までのリンパ節を触知することがありますが、1cmを超えて腫大した場合は病的と考えられます。
原因疾患の分類
感染性原因
- 下肢の皮膚感染症(蜂窩織炎、丹毒など)
- 泌尿生殖器感染症
- 性感染症(梅毒、ヘルペスなど)
- 結核
非感染性原因
- 悪性リンパ腫
- 白血病
- 他臓器からの転移性腫瘍
- 膠原病・自己免疫疾患
- サルコイドーシス
症状と診断のポイント
炎症性リンパ節腫大の特徴
- 圧痛がある
- 発赤、熱感を伴うことがある
- 可動性がある(周囲組織との癒着が少ない)
- 発熱などの全身症状を伴うことがある
悪性リンパ節腫大の特徴
- 無痛性のことが多い
- 硬く、可動性が乏しい
- 急速に増大する
- B症状(発熱、体重減少、盗汗)を伴うことがある
検査と治療
診断には以下の検査が行われます:
- 血液検査(炎症反応、血球数、LDHなど)
- 超音波検査
- CT・MRI検査
- 必要に応じてリンパ節生検
治療は原因疾患によって大きく異なり、感染症では抗菌薬治療、悪性疾患では化学療法や放射線療法などが検討されます。
3. 鼠径部皮下腫瘍・膿瘍
良性皮下腫瘍
粉瘤(ふんりゅう) 皮膚の下に袋状の構造物ができ、その中に角質や皮脂などの老廃物が蓄積した良性腫瘍です。鼠径部は摩擦や蒸れが多いため、粉瘤ができやすい部位の一つです。
- 症状:通常は無痛性の可動性のあるしこり
- 感染時:赤み、腫れ、痛み、発熱を伴う
- 治療:外科的切除
脂肪腫 皮下の脂肪組織が増殖してできる良性腫瘍です。
- 症状:柔らかく可動性のあるしこり、通常無痛
- 治療:症状がなければ経過観察、必要に応じて切除
石灰化上皮腫 表皮が変性・変質してできる良性腫瘍です。
- 症状:硬いしこりとして触知
- 治療:外科的切除
感染性疾患
鼠径部皮下膿瘍 細菌感染により膿が蓄積した状態です。
- 原因:化膿性汗腺炎、毛嚢炎の進行など
- 症状:痛み、発赤、腫脹、発熱
- 治療:抗菌薬投与、切開排膿
4. 女性特有の疾患:ヌック管水腫
発症機序と特徴
ヌック管水腫は女性特有の疾患で、鼠径部にあるヌック管(腹膜鞘状突起の遺残)に液体が貯留することで生じます。本来、この管は胎児期に形成され、出生後1年以内に自然閉鎖するはずですが、何らかの理由で開存したまま残存することがあります。
症状と診断
- コリッとした小さなしこりとして触知
- 鼠径ヘルニアと異なり、圧迫しても縮小しない
- 軽度の痛みを伴うことがある
- 大きさが変化することがある
診断は超音波検査やMRI検査で行われ、嚢胞性病変として描出されます。
治療と予後
軽症例では経過観察も可能ですが、症状が持続する場合や子宮内膜症の合併が疑われる場合は外科的治療が検討されます。手術では嚢胞を完全に摘出し、ヌック管を閉鎖します。
5. 血管系疾患
鼠径部静脈瘤
大腿静脈や大伏在静脈の拡張により、鼠径部に膨らみが生じることがあります。
- 症状:立位で膨隆、仰臥位で縮小
- 長時間の立位後に痛みや重だるさ
- 治療:軽症では弾性ストッキング、重症では手術
鼠径部動脈瘤
大腿動脈の拡張により拍動性の腫瘤として触知されます。
- 症状:拍動を伴うしこり
- 合併症:破裂、血栓形成のリスク
- 治療:外科的修復術、血管内治療
6. その他の疾患
精索水腫・陰嚢水腫(男性)
精索や陰嚢に液体が貯留する疾患で、鼠径部から陰嚢にかけての腫れとして現れます。
鼠径部痛症候群(グロインペイン症候群)
スポーツ選手に多く見られる疾患で、鼠径部周囲の筋肉や腱の炎症により痛みが生じます。明確なしこりは形成されませんが、圧痛や運動時痛が特徴的です。
症状による鑑別のポイント
鼠径部のしこりの鑑別診断において、以下の観点から症状を評価することが重要です。
1. しこりの性状
硬さ
- 軟らかい:ヘルニア、脂肪腫、嚢胞性疾患
- 硬い:悪性腫瘍、石灰化上皮腫、慢性炎症
可動性
- 良好:良性腫瘍、炎症性リンパ節腫大
- 不良:悪性腫瘍、膿瘍
境界
- 明瞭:良性腫瘍、嚢胞
- 不明瞭:悪性腫瘍、炎症
2. 症状の時間的変化
還納性(押すと戻るかどうか)
- 還納可能:鼠径ヘルニア初期
- 還納不可:嵌頓ヘルニア、腫瘍、嚢胞
体位による変化
- 立位で増大、仰臥位で縮小:ヘルニア、静脈瘤
- 体位に関係なし:腫瘍、嚢胞
3. 随伴症状
痛み
- 有痛性:炎症、感染、嵌頓ヘルニア
- 無痛性:良性腫瘍、悪性腫瘍初期
発熱・炎症徴候
- あり:感染症、炎症性疾患
- なし:腫瘍、嚢胞性疾患
受診の目安と診療科選択
緊急受診が必要な症状
以下の症状がある場合は、速やかに医療機関を受診してください:
- 激しい痛みを伴うしこり
- 発熱、悪寒を伴う場合
- しこりが急速に増大している場合
- 嘔吐、腹痛を伴う場合
- しこりが硬くなり、押しても戻らなくなった場合
早期受診が望ましい症状
- 無痛性でも継続的に存在するしこり
- 徐々に大きくなっているしこり
- 複数の部位にしこりがある場合
- 体重減少、倦怠感などの全身症状を伴う場合
診療科の選択指針
外科・消化器外科
- 鼠径ヘルニアが疑われる場合
- 皮下腫瘍の場合
泌尿器科
- 男性で陰嚢まで及ぶ腫れがある場合
- 泌尿器症状を伴う場合
産婦人科(女性)
- 婦人科疾患が疑われる場合
- 月経異常を伴う場合
内科
- リンパ節腫大が疑われる場合
- 発熱など全身症状を伴う場合
- 原因が不明な場合
皮膚科
- 皮膚表面の変化を伴う場合
- 皮膚感染症が疑われる場合
まずはかかりつけ医に相談し、必要に応じて専門科への紹介を受けることも一つの方法です。
診断に用いられる検査方法
1. 身体診察
最も基本的で重要な検査です。医師は以下の点を詳しく調べます:
- しこりの大きさ、硬さ、可動性
- 圧痛の有無
- 皮膚の変化(発赤、熱感など)
- 還納性の確認
- 他部位のリンパ節腫大の有無
2. 画像検査
超音波検査
- 非侵襲的で繰り返し施行可能
- リアルタイムでの観察が可能
- ヘルニアの診断には立位での検査が有用
- 血流評価も可能
CT検査
- より詳細な解剖学的情報が得られる
- 深部リンパ節の評価に有用
- 造影剤使用により血管系病変の評価も可能
MRI検査
- 軟部組織のコントラストに優れる
- 嚢胞性病変の診断に有用
- 放射線被曝がない
3. 血液検査
一般的な血液検査
- 白血球数:感染症、血液疾患の評価
- CRP:炎症反応の評価
- LDH:悪性リンパ腫の腫瘍マーカー
特殊検査
- 腫瘍マーカー:悪性疾患が疑われる場合
- 自己抗体:膠原病が疑われる場合
- 感染症関連検査:特定の感染症が疑われる場合
4. 組織検査
細胞診・組織診 悪性疾患が疑われる場合や診断が困難な場合に施行されます。
- 穿刺吸引細胞診(FNA)
- 針生検(core needle biopsy)
- 外科的生検
予防と日常生活での注意点
鼠径ヘルニアの予防
完全な予防は困難ですが、以下の点に注意することで発症リスクを低減できます:
体重管理
- 適正体重の維持
- 急激な体重変化を避ける
腹圧上昇の回避
- 重いものを持つ際は正しい姿勢で
- 便秘の予防・改善
- 慢性咳嗽の治療
筋力維持
- 適度な運動習慣
- 腹筋・背筋の強化
感染症の予防
皮膚の清潔保持
- 入浴時の丁寧な洗浄
- 摩擦の軽減
- 適切な下着の選択
免疫力の維持
- バランスの取れた食事
- 十分な睡眠
- ストレス管理
早期発見のためのセルフチェック
定期的な自己触診
- 入浴時などに鼠径部を触診
- 左右差の確認
- 大きさや硬さの変化に注意
症状の記録
- しこりに気づいた時期
- 大きさの変化
- 痛みの有無や程度
- 随伴症状
治療法の概要
保存的治療
経過観察
- 良性と判断された小さな腫瘤
- 症状のない嚢胞性病変
- 定期的な診察と画像検査による経過観察
薬物療法
- 感染症:抗菌薬
- 炎症:消炎鎮痛薬
- 悪性疾患:化学療法、分子標的療法
外科的治療
低侵襲手術
- 腹腔鏡下ヘルニア修復術
- 内視鏡下リンパ節生検
従来法手術
- 鼠径部切開ヘルニア修復術
- 腫瘤摘出術
- リンパ節郭清術
新しい治療法
ロボット支援手術
- より精密な手術が可能
- 患者さんの負担軽減
再生医療
- 幹細胞療法
- 組織工学的アプローチ

よくある質問(FAQ)
A1: 必ずしも病気とは限りません。健康な成人でも1cm程度までのリンパ節を触知することがあります。しかし、1cmを超える場合や、痛み、発熱などの症状を伴う場合は医療機関での評価をお勧めします。
A2: 成人の鼠径ヘルニアが自然治癒することはありません。時間の経過とともに徐々に大きくなり、嵌頓などの合併症のリスクも高まるため、診断がついた場合は手術治療を検討する必要があります。
A3: 手術方法や個人差によりますが、一般的には以下のような経過をたどります:
軽作業:術後1-2週間
通常の日常生活:術後2-4週間
重労働やスポーツ:術後6-8週間
A4: 現在主流のメッシュを用いた修復術では、再発率は1-3%程度と非常に低くなっています。ただし、技術的要因、患者要因(肥満、喫煙など)により再発リスクは変動します。
A5: 鼠径部のしこりの大部分は良性疾患ですが、無痛性で硬いしこり、急速に増大するしこり、全身症状を伴う場合は悪性疾患の可能性も考慮する必要があります。早期受診により適切な診断を受けることが重要です。
まとめ
鼠径部のしこりは日常診療でよく遭遇する症状の一つです。原因は鼠径ヘルニアから悪性腫瘍まで多岐にわたるため、自己判断で放置せず、適切なタイミングで医療機関を受診することが重要です。
特に以下の点にご注意ください:
- 早期受診の重要性:症状が軽微でも継続する場合は受診を検討
- 緊急性の判断:激痛、発熱、急速な増大がある場合は緊急受診
- 適切な診療科選択:症状に応じた診療科の選択
- 定期的なセルフチェック:日頃からの自己観察
- 予防可能な要因の管理:体重管理、感染予防など
現代の医学では、多くの疾患で効果的な治療法が確立されています。早期発見・早期治療により、多くの場合で良好な予後が期待できます。気になる症状がある場合は、恥ずかしがらずに医療機関にご相談ください。
参考文献
- 日本ヘルニア学会ガイドライン委員会. 鼠径部ヘルニア診療ガイドライン 2024 第2版. 金原出版, 2024.
- 参照:日本ヘルニア学会
- Mindsガイドラインライブラリ. 鼠径部ヘルニア診療ガイドライン 2024.
- 国立がん研究センター. リンパ腫の原因・症状について.
- 参照:国立がん研究センター
- MSDマニュアル プロフェッショナル版. リンパ節腫脹.
- 参照:MSDマニュアル
本記事について
本記事は医療情報の提供を目的としており、特定の診断や治療を推奨するものではありません。症状がある場合は、必ず医療機関を受診し、医師の診断と指導を受けてください。
監修者医師
高桑 康太 医師
略歴
- 2009年 東京大学医学部医学科卒業
- 2009年 東京逓信病院勤務
- 2012年 東京警察病院勤務
- 2012年 東京大学医学部附属病院勤務
- 2019年 当院治療責任者就任
佐藤 昌樹 医師
保有資格
日本整形外科学会整形外科専門医
略歴
- 2010年 筑波大学医学専門学群医学類卒業
- 2012年 東京大学医学部付属病院勤務
- 2012年 東京逓信病院勤務
- 2013年 独立行政法人労働者健康安全機構 横浜労災病院勤務
- 2015年 国立研究開発法人 国立国際医療研究センター病院勤務を経て当院勤務